「できる」と「わかる」のちがいはなに?
- 加藤ちか

- 5月19日
- 読了時間: 8分
計算はできるのに、
文章題になると止まってしまう。
そんな子は意外と多い。
九九も言える。
たし算やひき算もできる。
でも、
文章で場面が出てきた途端に、
急にわからなくなる。
学校や塾では、つい
・正解できた
・解けた
・できた
ということを「わかった」と呼びがちだ。
でも、本当にそうなんだろうか。
私は、そうではないと思っている。
「わかる」とは、
ただ答えを出せることではない。
その言葉を聞いたときに、
その記号を見たときに、
頭の中に意味のあるイメージや関係が立ち上がること。
私はそれが「わかる」ということの土台だと思っている。
言葉を知っていることと、わかっていることは違う
たとえば「落とし蓋」と聞いて、
どんなものを思い浮かべるだろう。
料理をする人なら、
たいてい何となく想像できるはずだ。
鍋の中に入れる丸い蓋
煮物のときに使うもの
食材が煮汁に浸かりやすくなるようにするもの
さらに理解が深い人なら、
木のものもあれば金属のものもあること
鍋の大きさに合わせて選ぶこと
煮崩れを防いだり、
味をしみやすくしたりするために使うことまでわかる。
でも、落とし蓋を知らない人に
「落とし蓋ってどんなものか想像してみて」と言っても、
頭の中には何も浮かばない。
音として言葉は聞いている。
でも意味のある像が立ち上がらない。
これが「わかっていない」という状態だと思う。
そして大事なのは、
理解には深さがあるということだ。
名前を聞いたことがある
なんとなく形が浮かぶ
使い方がわかる
何のために使うのかわかる
状況に応じて使い分けまでわかる
理解とは、0か100かではなく、
イメージや関係の解像度が上がっていくことでもある。
人は体験の積み重ねで意味をつくっている
では、人はどうやって「わかる」をつくっていくんだろう。
人は、生まれたときから
「窓」や「ドア」や「落とし蓋」の意味を知っているわけではない。
最初はただ、音を聞いているだけだ。
でも日常の中で、
「窓を開けて」
「ドア閉めて」
という言葉が使われるのを見て、
大人の動きを見て、
自分でもやってみて、
間違えて、
修正されていく。
そうやって少しずつ、
言葉と現実が結びついていく。
たとえば、
子どもが「窓を開けて」と言われたときに、
似たような四角いものを開けてしまうことがある。
そのとき大人が
「それはドアだよ」
と伝える。
すると子どもは、
同じように見えるものの中にも違いがあること、
窓には窓の、ドアにはドアの
役割があることに気づいていく。
つまり人は、
具体的な体験の中で、
同じところと違うところを少しずつ整理しながら
「これはこういうものだ」という
意味のまとまりをつくっている。
この意味のまとまりが、概念だ。
概念があるから、人は考えられる
概念とは、
バラバラの経験をひとつの意味として束ねる力だ。
木の窓でも、アルミの窓でも、
大きな窓でも、小さな窓でも、
透明でも、すりガラスでも、
人はそれらを「窓」というひとつのまとまりとして理解できる。
逆に、見た目が少し似ていても、
役割が違えば「これは窓ではなくドアだ」と区別できる。
こうやって人は、目の前の一つ一つの具体から、
共通する特徴を抜き出し、
違いを整理し、
抽象化して考えられるようになっていく。
これができるからこそ、
人は目の前にないものも考えられるし、
複雑な仕組みを理解したり、
新しいものをつくったりできる。
建物を建てたり、道具を発明したり、
見えない仕組みを考えたりできるのは、
この概念形成の力があるからだと思う。
「できる」と「わかる」は違う
ここで、算数の話に戻りたい。
学校の学習では、
「できる」と「わかる」が混同されやすい。
たとえば、
2×8=16
と正しく答えられたとする。
でも、それだけで
その子が掛け算をわかっているとは言えない。
なぜなら、
その16が、ただ覚えた結果かもしれないからだ。
2×8を見たときに、
2こで1まとまりのものが8こある
同じ量が8回くり返されている
2ずつ増えるものを8回集めた量
そんなふうに、
関係としてイメージできているかどうか。
そこが理解の分かれ道になる。
つまり、答えを出せることと、
その記号が表している意味や関係をわかっていることは別なのだ。
低学年のうちは、この差が見えにくい。
計算問題だけなら、ある程度は「やり方」でできてしまうから。
でも、学年が上がるにつれて、ここに大きな差が出てくる。
なぜ3年生以降に算数が難しくなるのか
3年生、4年生になると、
算数は一気に抽象度が上がる。
分数
割合
速さ
単位量あたり
比
こうした単元は、それぞれ別のものに見えるけれど、
実は共通していることがある。
それは、
何をひとまとまりと見るか
何を基準にするか
1あたりで考えるとどうなるか
という見方が必要になることだ。
たとえば速さは、
ただ距離を時間で割る計算ではない。
「1時間あたりにどれだけ進むか」という見方だ。
割合も、
ただパーセントを計算する技術ではない。
「何を100%、つまり1とみなしているのか」を見極める力が必要になる。
これらは全部、掛け算や割り算の理解の上に乗っている。
掛け算を
九九の暗記
「×」の計算方法
としてしか持っていない子は、ここで苦しくなる。
逆に、掛け算を
同じまとまりのくり返し
1単位あたりといくつ分
関係を表す方法
として持っている子は、
新しい単元が出てきても、
それまでの理解とつなげながら考えられる。
だから、3年生以降に算数が苦手になる子は、
その学年の内容だけが難しいのではなく、
もっと手前の基礎概念が十分に育っていないことが多い。
なぜドリルでは概念が育ちにくいのか
ここで、私がずっと感じていることがある。
それは、
ドリルだけでは概念は育ちにくい
ということだ。
もちろん、ドリルを否定したいわけではない。
ドリルには役割がある。
すでに意味が入っていることを整理したり、
定着させたり、
手を慣らしたりするには、とても役立つ。
でも、まだ概念が十分に育っていない段階では、
ドリルは表面だけをなぞる学習になりやすい。
たとえば掛け算。
2×8=16を何度も練習すれば、
答えは言えるようになる。
でもそのとき頭の中に
「2こで1組のものが8組ある」
というイメージがなければ、
それは意味を伴った理解というより、記号操作の記憶に近い。
すると、計算問題はできても、文章題になると止まる。
日常の中で掛け算を使えばすぐに考えられる場面でも、
それを掛け算として捉えられない。
つまりドリルだけでは、
算数の「答え方」は身についても、
算数の「見方」が育ちにくいのだ。
概念が育つためには、
記号の前に、体験が必要になる。
分ける
配る
くらべる
まとめる
くり返す
余る
半分にする
1つあたりで見る
そういう経験を通して、
子どもの中に
「あ、これが掛け算なんだ」
「これが割り算なんだ」
という実感が育っていく。
その実感があってはじめて、
記号はただの模様ではなく、
意味を持った言葉になる。
日常の中に、算数の概念はたくさんある
しかもこの概念形成は、
特別な教材だけで起こるものではない。
日常の中に、いくらでもある。
からあげが10個あって、3人で分けたらどうなるかな。
1人3個ずつ配ると、1個余るね。
じゃあ2個ずつにしたらどうなるかな。
4人だったらどうかな。
この会話の中には、
割り算も、あまりも、掛け算も、引き算も、
全部含まれている。
大事なのは、子どもがその場面を思い浮かべられることだ。
数字だけを見るのではなく、
唐揚げが並んでいて、
それを3人に配っていて、
1個余っている様子が頭の中に浮かぶこと。
そこではじめて、
算数の記号と自分の生活がつながる。
こういう経験をいろんな角度から積み重ねることで、
算数は「テストのためのもの」ではなく、
世界を理解するための言葉になっていく。
だから低学年で大事なのは、たくさん解くことではない
私は、低学年の算数で本当に大事なのは、
早く計算できることでも、
たくさん問題をこなすことでもないと思っている。
もっと手前にある。
数や記号の向こうにある関係を、
体験として持っているか。
その言葉を聞いたときに、
頭の中に像が立ち上がるか。
自分の生活と算数がつながっているか。
そこが育っていれば、
この先どれだけ抽象的な内容が出てきても、
新しい概念を受け取る土台になる。
逆にそこがないまま進むと、
学年が上がるほど苦しくなっていく。
だから、算数が嫌いになってから慌てて今の単元を追いかけるより、
いったん立ち止まって、
足し算、引き算、掛け算、割り算といった
基礎概念を、体験に戻して育て直すことが大事になる。
算数は、やり方を覚える教科ではない。
概念を育てる教科だ。
そして概念は、
体験とことばの往復の中で育つ。
だから私は、
低学年のうちに、
具体物に触れたり、
絵に描いたり、
日常と結びつけたりしながら、
算数の意味を丁寧に体に落としていく時間を大事にしたいと思っている。
それが、あとから効いてくる。
3年生以降の複雑な算数を支える、いちばん深い土台になるからだ。
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