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答えは外にあるようで、自分の中にしかないハナシ


最近、ちょっとびっくりした話を聞いた。


子育てをしている中で、

今、ミルクをあげるべきか。

お風呂に入れるべきか。

寝かせた方がいいのか。


そんな日々の小さな判断をAIに聞き、

“最善解”を出してもらう若い世代がいるらしい。


それを聞いたとき、私は少し引っかかった。


判断をAIに任せるって、そもそもどういうことなんだろう。

私たちは、何をもって判断しているんだろう。



AIの答えは、入力する人によって変わる


AIは、問いを投げれば答えてくれる。


でも、その答えは

「何を入力するか」によって大きく変わる。


たとえば、


「子どもが勉強しません。どうしたらいいですか?」


と聞けば、AIはきっと、

声かけの仕方、習慣づくり、環境の整え方、やる気を引き出す方法などを教えてくれる。


それはそれで、役に立つかもしれない。


でも、もし本当の問題が

「子どもが勉強しないこと」ではなく、

「親である私が不安になっていること」だったらどうだろう。


あるいは、

子どもは勉強が嫌なのではなく、疲れているだけかもしれない。

やり方が合っていないだけかもしれない。

そもそも今その子に必要なのは、勉強よりも安心できる時間かもしれない。


そう考えると、AIに入れる問いは変わってくる。


同じ出来事でも、

どこを問題として見るかによって、

AIから返ってくる答えはまったく変わる。


つまり、AIの答えの質は、

入力する人の問いの質に左右される。


では、問いの質は何で決まるのか


ここで大事なのは、

「問いの質」とは、単に頭の良さや知識の多さだけで決まるものではない、ということ。


もちろん、知識も必要。

言葉にする力も必要。


でも、その前にもっと大事なものがある気がしている。


それは、


何に違和感を持つのか。

どこで立ち止まるのか。

自分自身や、目の前の相手の小さな変化に気づけるのか。

自分の不安や焦りが、問いを歪めていないか。


そういうものを感じ取る力。


つまり、感受性


そしてもうひとつ大切なのが、

自分がどんな前提で物事を見ているのかに気づく力。


つまり、メタ認知力


「子どもが勉強しない」と思ったとき、

本当に問題は子どもにあるのか。

それとも、自分の中の不安がそう見せているのか。


「これが正しい」と思ったとき、

その正しさはどこから来ているのか。

学校的な価値観なのか。

世間の常識なのか。

自分の過去の経験なのか。


そこを一歩引いて見る力がないと、

AIはその人が設定した枠の中で、とても上手に答えを出してくれる。


でも、そもそもの枠がズレていたら、

どれだけ立派な答えが返ってきても、

本質には届かないかもしれない。



身体性とは、問いが生まれる前のセンサー


そしてここに、私は

身体性というものが深く関わっていると思っている。


身体性というと、

運動することや、健康であること、身体を使って体験することをイメージするかもしれない。


もちろん、それも身体性の一部だと思う。


でも、私が今感じている身体性は、もう少し深いもの。


身体性とは、

世界を受け取り、違和感を拾い、問いを立ち上げるためのセンサー

なのではないか。


そんな気がしている。


私たちは、世界をそのまま見ているわけではない。


身体が感じる。

神経が伝える。

脳が処理する。

過去の経験や感情や思考の癖が意味づけする。


その結果として、

「私にとっての世界」が立ち上がっている。


同じ出来事でも、

疲れているときには責められたように感じるし、

心に余裕があるときには、ただの情報として受け取れる。


同じ子どもの姿を見ても、

不安が強いと「遅れている」と見える。


でも身体が整っていて、落ち着いて見られると、

「今この子は何かを育てている途中なのかもしれない」

と感じられることもある。


そう考えると、AIに入力する言葉は、

いきなり頭から出てくるものではない。


その前に、

何を感じ取ったか。

何に引っかかったか。

どこに違和感を覚えたか。


その身体のセンサーが働いている。


身体が鈍っていると、問いも鈍る。


逆に、身体の感覚がひらいていると、

「この答えは正しそうだけど、なんか違う」

「問題はそこじゃない気がする」

「この子の今の状態を、もっと丁寧に見たい」

という微細な違和感を拾うことができる。


AI時代に身体性が大事だと思うのは、

AIに対抗するためではない。


むしろ、

AIを深く使うためにこそ、人間側の身体性が問われる。


私はそんなふうに感じている。



判断基準はどこにあるのか


AIに判断を任せることへの違和感は、

単に「AIを信用していいのか」という話ではない。


もっと根本には、

私たちは何を基準に判断しているのか

という問いがあるように思う。


人は日々、たくさんの判断をしている。


子どもにどう声をかけるか。

仕事を受けるか断るか。

休むか、もう少し頑張るか。

お金を何に使うか。

どんな学びを大事にするか。


でも、その一つひとつの判断が、

自分のどんな価値観から生まれているのかを意識している人は、

実はあまり多くないのではないかと思う。


自分は何を大事にして生きたいのか。

何を守りたいのか。

何に違和感を持つのか。

どんな未来につながる選択をしたいのか。


そこが曖昧なままだと、

判断はどうしても外側の基準に流れていく。


世間的にはどうか。

損か得か。

効率がいいか。

失敗しないか。

みんながどうしているか。


そして今、その外側の基準のひとつとして、

AIが入ってきているのかもしれない。


AIに聞けば、もっともらしい答えが返ってくる。

一般的に正しそうな選択肢が出てくる。


それはとても便利だ。


でも、自分の判断基準が育っていないままAIに聞き続けると、

いつの間にか、

自分で選んでいるようで、選ばされている

という状態になるかもしれない。



自分で選ぶということは、引き受けるということ


AIに判断を任せると、楽な部分がある。


それは、考える手間が減るからだけではない。


もしかしたら一番楽なのは、

失敗したときに、自分で引き受けなくて済む感じがすること

なのかもしれない。


「AIがそう言ったから」

「一般的にはそれが正しいらしいから」

「最善解として出てきたから」


そう思えると、少し安心できる。


でも、自分の意思で判断するとなると、

その選択の先にある未来を、自分で引き受けることになる。


うまくいくこともある。

うまくいかないこともある。

後から「あっちだったかな」と思うこともある。


それでも、

私は何を大事にしたくて、この選択をしたのか

が自分の中にあるなら、その経験は自分のものになる。


失敗しても、次の問いになる。

迷っても、自分の感覚が育つ。

選び直すことで、判断基準が少しずつ磨かれていく。


だから判断とは、

正解を当てることではなく、

自分が大事にしたいものに照らして選び、その結果を引き受けていくこと

なのだと思う。


AIは、その判断を助けてくれる存在にはなれる。

でも、判断基準そのものを育てることまでは、代わりにやってくれない。



じゃあ、子どもたちに何を育てたいのか


これからの時代、

知識をたくさん持っていることだけでは、AIにはかなわないかもしれない。


正解を早く出すことも、

AIがかなり担ってくれるようになると思う。


だからこそ、人間に必要なのは、

ただ情報を覚える力ではなく、


違和感を感じる力。

問いを立てる力。

自分の前提を疑う力。

答えを自分の身体と現場に引き戻して考える力。


なのではないかと思う。


AIを便利な道具として使うことも大事。


面倒な作業を助けてもらう。

情報を整理してもらう。

文章を整えてもらう。


それは、どんどん使えばいい。


でも同時に、AIを

自分の問いを深めるための道具

として使うこともできる。


そのためには、

自分の中にある小さな違和感を見逃さないこと。

目の前の出来事を、既存の枠だけで決めつけないこと。

自分が何を大事にして生きたいのかを、少しずつ感じ取り、言葉にしていくこと。


それが必要なのだと思う。


何を問いとして立ち上げるのか。

どこに違和感を持つのか。

どの答えに「それだ」と感じるのか。

どの答えに「なんか違う」と感じるのか。


そこには、その人の感受性があらわれる。


そしてその感受性は、

頭だけで育つものではない。


身体で感じること。

自分の反応に気づくこと。

人と関わること。

うまくいかなさを引き受けること。

迷いながら、自分の言葉にしていくこと。


そういう日々の積み重ねの中で、

少しずつ育っていくものなのだと思う。


AI時代に必要なのは、

AIを使いこなす力だけではない。


自分が何を感じ、

何を大事にし、

どんな前提で世界を見ているのかに気づく力。


そして、AIから返ってきた答えを、

自分の身体と生活の中に引き戻して考える力。


それは、子どもたちにこそ育てていきたい力だと思う。


正解を早く出すことよりも、

「あれ?」と立ち止まること。

「なんで?」と考えること。

「自分はどう見ているんだろう?」と振り返ること。


AIに判断を任せるかどうか。


その話の奥には、

人間はこれから何を育てていくのか

という問いがある気がしている。


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